ロマンチックを飲みましょう

ロマンチックを飲みましょう

かつて、地球上には戦争や飢餓が絶えなかったそうだ。
21世紀前半までの未熟な社会システムは、すべて人間を幸福に導くものたり得なかった。仕方のないことだ。未熟さが回避できない。

何にせよ、そういう苦しんだ人間たちの気持ちは彼には関係がまるでなかった。もはやそういう苦悩が想像できないぐらいに彼の住む世界は安定し尽くしていたのだ。

彼はアフガニスタンに住む。昔は戦乱の絶えなかった地域だ。今は数少ない人々が細々と、しかし全く自由に安らぎの中で暮らしていた。
彼を含む世界中の人類全員は働く必要が無くなった。労働を効率化すべく生まれた社会システムが成熟した結果、労働の必要を無くしてしまうとは誰が予測しただろうか?機械は全ての労働を代替し得るようになった。
全ての人類は機械に養ってもらうことが可能になった。

人類は驚くべきことに、争うことをやめた。その無為さにやっと気づいたのだ。
残念ながら自力で気づくことは出来なかった。機械が人類の教育を全面的に担当するようになった結果だった。

他の全ての問題が機械の進化によって解決した。機械は不公平不条理を全て無くした。人間は今までで一番上手くいく状態になった。


彼はアブジャの街中を歩いていた。

「ロマンチックを飲みましょう」

広告が目に入った。機械は数十年前に商業主義を廃止させていたので、現代の広告にはどこかの誰かの個人的な主張だけが載っていた。

詩的な言葉でごまかしているが、つまりバイアグラを飲んでセックスして子供を増やしなさいと言っているに過ぎなかった。
彼は無視した。人類はたくさんいるし、地球の資源は残り少ないのだから増やす必要は無いと考えていた。


10分歩くと、薄いオレンジ色の建物にたどり着く。この建物で定期的に行われる会合に参加するべく彼は歩いてきたのだった。部屋の中には15人ほどが円形に座っている。いつもの自分の席に着いた。

「私はもはや人類に生殖の必要は無いのでは無いかと思っています」

彼の主張の番になったので、さっき思ったことを言った。

「人類は今まで、自分たちを増やすことだけを考え、それのためだけに争い、地球を荒らし尽くして来ました。これ以上増やす必要は無いのではないでしょうか」

だいたいの人が同意の表情を示した。手応えを感じる。
一人の男が手を挙げ、名前を呼ばれるのを待ってから言う。

「あなたの言っていることはもっともだと思う。しかし、それは人間の不安でしかないのだ。不安を解消しようとしているにすぎない」

「不安を解消しようとしているのは確かです。それの何がいけないか、私には理解しかねますが」

「不安を解消したい人間は機械を作り、それに不安を解消させてきた。もっと早く布を縫わなければ競争相手に出しぬかれる不安があったから機械にやらせた。戦争が怖いから自分たちを再教育させた。自分たちの社会は正しくない気がするから変えさせた。全て不安に由来するものだ。
しかし不安はなぜ存在するかと言えば、自分たちが存在し続けるために、自分たちが何者かに存在を脅かされないように、自分たちを改善すべく存在するのだ。
自分たちを増やすのをやめてしまえば、自分たちは存在しなくなる。これは緩やかな自殺だ。自殺がいけないのは、存在するものは存在し続けようと努力し続けなければいけないからだ。これは自然の法則なのだ。
この世に存在する全てのものは存在し続けようとするのだ。
自殺は自分のアイデンティティを守るために、社会的な存在を守るために生物学的な自分を殺害することを言う。
これは全く馬鹿らしいものだ。生物学的な自分が死ねば社会的な自分も死ぬのだ。
我々は自殺すべきではないのだよ」

別な男が手を挙げ、言う。

「古い哲学者が言いました。『死は恐るるに足りない。なぜならそれが来る時、我々は存在しないから』と。
自殺すれば自らが観測している間は自らを生かすことが出来るのです。
そもそも、この場合滅びるのは人類全体です。
我々は種としての尊厳を保ちながらその歴史を終えるのです。その間、誰一人として、自分に関わる人が自殺した負い目や傷など負いません。」

また別な男が言う。
「そういう意味では、人類は、社会的な寿命を迎えているのではありませんか。
システムは成熟し尽くし、情勢は安定し尽くしました。成長や変化が無いのは死と同義です。
我々の種は自然に寿命で死んでいっているに過ぎません。」


この間、彼は議論に飽きて、ふわふわのスペイン・オムレツのことばかり考えていた。