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不定期連載・侵蝕と対策(2)

創作 侵蝕と対策 連載

前回:
hab.hatenablog.com


今年から高等数学の教室は変わった。生徒数が当初から半減したから当然だろう。
A棟二階のこれ以上なく小さな教室、A02になった。
人数が少ないので狭い分には構わないのだが、A棟の二階は実験室だらけで、A02教室も実験室二つに挟まれた物置兼作業場にホワイトボードを置いただけの部屋であるから、科学教科でやったことの影響をモロに受ける。つまり、臭い。

実験室は換気がちゃんとしているので平気だが、そういった設計がされていないA02は、隣接する部屋から流れてきたなにやら酸っぱいニオイをカーペットの床に吸収し高等数学の頭でっかちのインテリどもを苦しめるのであった。

その日はセメダインのような異臭につつまれた中での授業スタートとなった。もう5月になって生徒らも慣れたので、教室に入ると苦笑しながら天井についた扇風機をフルパワーでまわす。

「本当に臭いな」

物静かながらシニカルな態度の教師は、言いつつもさして気にしていない体で板書をはじめた。
試験前最後の単元だという『複素平面における双曲線』だ。あいかわらず訳の分からない内容だが、この教師の板書を写していればテストで全くわからないといったことにはならない。

(しかし、それでも普通数学や初等数学の奴らが見れば理解不能のあまりパニックになるだろうな)

ふと考えて、優越感に浸りほくそえむ工藤なのであった。

さて、クラスの全員が集中して授業に参加する中、おそるべき天才少女・錦場はもくもくと何かの単語群を紙片に書き込んでいた。
明らかに数学ではない。なにかの専門用語をびっしりと書いているのである。

「おい。錦場」

小声で声をかけると錦場はニタリとして、

「何、どうしたの?」

とぼけて答えた。

「数学の授業中だぞ。数学をやれよ」

「はい、はい」

にやつきながら頷く、彼女の態度はまさしくイタズラを咎められた子どものそれであって、後ろめたさなどは毛頭なく、むしろ指摘されたことがこれ以上なく愉快だと言うようだった。

彼女は今まで一回も高等数学の教科書を持って来た事がなかった。いつも誰かに見せてもらうのだ。
今年に入ってからは、その役割はもっぱら工藤が担っていた。
いつも通り工藤の教科書を勝手にめくり、問題を解きはじめた。昨日出た宿題だ。
これもいつものことだった。絶対に宿題は家でやってこない。

「わたし、帰ったらいそがしいからね。勉強なんてしてられないよ」

いつかそう言っていたのを思い出し、勉強で手一杯である工藤は、まるで自分が初等数学をとっているバカ共になったように感じた。


「扇風機うるせえな。止めていいか」

言って、答えを待たずに敏腕教師がスイッチをひねった。

(つづく)